Chronological table of Zd. Fibich




Zd. Fibich 年表
西暦 出来事 関連事項 主要作品
1848  

この当時のチェコは、ハンガリーやスロヴァキアなどと共に、ハプスブルク君主国(オーストリア帝国)の一領邦となっていた。

フランス革命の余波がオーストリア帝国にも波及して3月革命が勃発し、メッテルニヒ体制が崩壊。帝国領内の諸民族が独立を求めて蜂起する事態に発展した。

「スラヴ会議」開催中の6月12-17日の間、チェコ人の革命軍と、その鎮圧に向かった軍がプラハで戦闘を繰り広げた。この革命軍にはベドジフ・スメタナ [Bedřich Smetana] も参加していた。

オーストリア皇帝フェルディナント一世が退位し、その後継としてフランツ=ヨーゼフ一世が即位(12月)。
フランツ=ヨーゼフ一世は神権的君主理念を信奉し、自由主義・立憲主義・民主主義に背を向ける反動的な権威主義者だった。

 
1850

ズデニェク・フィビヒ(フィビフ)、ボヘミアのフシェボジツェ [Všebořice] 村に誕生(12月21日)。
洗礼名はZdenko
ズデニェクの父・ヤン [Jan Fibich, 1810 - 1882-12-02]はアウエルスペルク [Auersperg] 伯に仕える森林官、母・マリー [Marie Römischová, 1823 - 1891-03-30]はドイツ語を話すウィーン出身の女性だった(母の実家は織物製造業者)

スメタナ26歳

ドヴォジャーク9歳

 
1852  

詩人のチェラコフスキー [František Ladislav Čelakovský / 1799-1852] が死去

 
1853  

ヤロスラフ・ヴルフリツキー [Jaroslav Vrchlický / 1853-1912] が誕生

 
1854  

L.ヤナーチェクが誕生(7月3日)

 
1856  

R.シューマンが亡くなる(7月29日)

スメタナ、ドライショック[Alexander Dreyshok, 1818-1869]から、スウェーデンのイェーテボリでのピアノ教師の職を勧められ、同地に赴く(10月)、同地では、ピアニスト、合唱指揮者として活躍する。

 
1857  

ドヴォジャーク、プラハオルガン学校に入学(10月1日)

 
1859

この年以降、母より音楽の手ほどきを受ける。
また、ウィーンでヘルマンの公立基幹学校に通い始める(〜1862)。

アレクサンダー・バッハ [Alexander von Bach]が事実上の首相となり、「バッハ体制」が確立。メッテルニヒ以来の独裁体制が復活する。

J. B. フェルステル[Foerster, Josef Bohuslav]が誕生(12月30日)。

 
1860  

スメタナ、スウェーデンのイェーテボリからプラハに帰還。

カリシチェ村に、グスタフ・マーラーが誕生。

オーストリア政府、「十月勅令」(連邦主義的な憲法)を出す。

チェコで中央集権化に反対し地域自治を目指す「老チェコ党」が結成される。

 
1861

ウィーンとシュチールスキー・フラデツ[Štýrský Hradec](グラーツ)を経由してトリエステへ旅行。(5月16日〜6月12日)

オーストリア政府、「二月勅令」(中央集権的な憲法)を出す。前年の「十月勅令」と合わせて、立憲制に移行した。これらは、各地の政治活動を活発化させる契機となった。

 
1862

ヘルマンの公立基幹学校を終え、やはりウィーンのギムナジウムに通う(〜1863)。

この年から作曲を始めている。

スメタナと、ドヴォジャークのパトロンであるリーゲル[Rieger, František Ladislav]との間で、「国民音楽」を巡る論争が始まる。

ドビュッシーが誕生(8月22日)。

仮劇場が開幕。ドヴォジャークは同劇場管弦楽団にヴィオラ奏者として参加(11月18日)。

 
1863

ウィーンのギムナジウムを後にし、プラハのマラー・ストラナにあるチェコ・ギムナジウム [českého malostranského gymnázia v Praze] に通い始める(〜1865)。

母より、自宅にてピアノを教わる。
また、フランティシェク・チェルニー [Černý, František] の勧めにより、最初の作曲を手掛ける。

スメタナ、プラハ芸術家協会の音楽部長に就任。

スメタナ、共同で私設音楽学校を開校。

ブラームス「パガニーニの主題による変奏曲」

オーストリア帝国の中央集権化政策に反感を抱いたボヘミア人議員、帝国議会のボイコットを開始する。

 
1864

10月からは、プラハで経験豊富な2人の音楽教師、ジークムント・コレショフスキー [Kolešovský, Zikmund / 1817-1868]とスメタナ[Smetana, Bedřich / 1824-1884]の生徒となる。
この結果、フィビヒのグラマー・スクールでの勉学はなおざりになり、翌年の退学に繋がる。

スメタナの強い後押しにより、聖イグナツ教会のオルガニストに就任する。

ヴァーグナー「トリスタンとイゾルデ」ミュンヘン初演。

ピアノメーカーのペトロフが創業。

 
1865

音楽の勉強に専念する為、復活祭の日に、チェコ・ギムナジウムを退学する。

この年に作曲した交響曲変ホ長調(番号なし)の2つの楽章が、作曲家のアロイス・フニリチカ [Hnilička, Alois] の手で編曲され、フルジム [Chrudim] で開かれた演奏会で上演された(4月6日)

10月6日、遠戚のヴァイオリニスト・ドライショック[Dreyschock, Raymund / 1824-1869]の援助を得てライプツィヒ音楽院に入学し、作曲とピアノを学ぶ(在籍:〜1866年のクリスマス)。

ピアノをモシェレス、和声をリヒターに学び、同時にプライベートレッスンで対位法をヤダスゾーン [Jadassohn, Samuel(Salomon?) / 1831-1902] (「芸大和声」以前の日本では、この人の和声体系が使われていたそうである)に学んだ(〜1867年5月)。

この年の半ばまでに50ほどの作品を書き上げた。これらのうち大部分はピアノ曲で、そのうちの1つはOp.1 として、この年に出版された。他には歌曲、序曲、"ロメオとジュリエット" のための後奏曲、弦楽四重奏形態による交響曲第3番のためのスケッチなどが含まれている。

ドヴォジャーク、交響曲第1番、第2番作曲。

シベリウスが誕生。

「春」Op.1
1866 E-mollのスケルツォ(後に「2つのスケルツォ」Op.4 のうちの1曲となる)が書かれる。
ライプツィヒ音楽院での勉学を終える(クリスマス)。

スメタナ「売られた花嫁」初演(5月30日)

スメタナ、仮劇場の首席指揮者に就任(9月15日)

モスクワ音楽院創立。

ブゾーニが誕生。

オーストリア、普墺戦争に敗北(ケーニヒグレーツの会戦・7月)。ドイツ連邦盟主の地位はプロイセンに移り、オーストリアはドイツ統一運動から除外された。

 
1867

ヤダスゾーンのプライベートレッスンを終える(5月)。

ライプツィヒでの勉学を終え、1年余りを両親と共にリバーニュ [Libáň] 、ジャーキー [Žáky] で過ごす。

オーストリア、前年の敗北により帝国内の再編を図る為、かねてから対立を深めていたハンガリーの独立要求に妥協し(アウスグライヒ)、「オーストリア=ハンガリー二重帝国」を成立させる。

チェコ人自由主義ブルジョワジー、モスクワで「スラヴ会議」に参加(5月)。ロシアに接近する一方、オーストリア政府に抵抗し、帝国議会をボイコットする等の戦術に出る(〜1879年)。

「アルバムリーフ」Op.2" (1865~)
「3つの歌」Op.3(1865~)
1868 ピアニストとしての経験を積む為、パリへ向かう。(7月19日)

パリでピアノ教師で生計を立てる傍ら、関心のあった美術,彫刻を学ぶ。

チェコ国民劇場の建設が始まる  
1869

パリから一旦ボヘミアに戻った後、マンハイムで音楽の勉学の仕上げをする(10月〜1870年6月)。ここではオペラ監督レヒナー [Lechner, Vincenz, 1811-1893] の下で学び、ヴァーグナーの楽劇《ニュルンベルグのマイスタージンガー》に接した。この作品は、フィビヒが最も気に入っていた5つのオペラの一つでもあった。カレル・ピッピヒによれば、フィビヒは「確固たるワグネリアン」であったという。

ベルリオーズが亡くなる。

ヴァイオリンとピアノのための「ソナチネ」Op.27
1870

マンハイムでの勉学を終え、両親と共にジャーキ [Žáky] 村に移り住む(〜1871)。

スメタナとピヴォダ [Pivoda, František]との間で「国民音楽」についての論争が始まる。

エルベン [Karel Jaromír Erben / 1811-1870] が死去。

V.ノヴァークが誕生(12月5日)

 
1871

チェコ音楽へ貢献する決意をもって、プラハに移り住む。

ドヴォジャーク、仮劇場オーケストラを退団し、個人レッスンで生計を立て始める。

オーストリア、帝国内の重要な経済基盤であるチェコのブルジョワジーの要求を無視出来なくなり、チェコ人と妥協するため「三重王国制」を認める法案を準備。しかしハンガリー人とチェコのドイツ人の激しい反対に遭って頓挫する。

ドイツ帝国が成立。

「5つの歌」Op.5
オペラ《ブコヴィーン》
1872     ピアノ三重奏曲ヘ短調
1873

製粉所の娘ルージェナ・ハヌショヴァー [Růžena Hanušová] と結婚する(2月20日)。

スメタナが認めた証明書を携え、リトアニアのヴィリニュスに赴き合唱指導の職に就く(9月〜)。

ラフマニノフが誕生。

レーガーが誕生。

ドイツ宰相ビスマルクの周旋によりオーストリア・ドイツ・ロシア間に三帝同盟が成立する。

交響詩「オテロ」Op.6
交響詩「ザーボイ、スラヴォイとルジェク」Op.37
喜劇序曲 Op.35
「4つのバラード」Op.7
1874

1月にリハルトとエルサの双子が誕生したが、リハルトは生後わずか数時間後に亡くなってしまう。

ルージェナの看病に来ていた姉も亡くなる。

ヴィリニュスからプラハへ帰還する(8月)

ルージェナが亡くなる(10月4日)。

ヨゼフ・スク(スーク)が誕生(1月4日)

シェーンベルグが誕生。

ドヴォジャーク、アダルベルト(ヴォイチェフ)教会のオルガニストに就任する(2月)

スメタナ、聴覚を失い、仮劇場指揮者を辞任(10月20日)。

老チェコ党の議会ボイコット戦術に反対して結成されていたグループがこの年「青年チェコ党」となる。

「メルジーナ」Op.55
ピアノ四重奏曲 Op.11
弦楽四重奏曲イ長調
1875

ルージェナの生前の願いにより、フィビヒはルージェナの姉で、4歳年上のベッティ [Betty / 1846-1901] (仮劇場〜国民劇場の名コントラルト歌手で、スメタナやフィビヒの作品にも出演していた)と結婚する(8月23日)。

仮劇場(後のチェコ国民劇場)の音楽副監督と合唱監督の職に就く(〜1878)。

ベンダのメロドラマ《ナクソスのアリアドネ》を指揮する(12月22日)。

ラヴェル生誕。

ビゼー亡くなる。

交響詩「トマンと森の精」Op.49
メロドラマ「クリスマス・イヴ」Op.9
ヴァイオリンとピアノのためのソナタ ニ長調
1876

ルージェナが生んだ双子のうち、残った方のエルサも亡くなってしまう(4月6日)。

ベッティとの間にリハルト [Richard / 1876-1950] が誕生(9月3日)。

  新しいチェコ劇場オープニングへのプロローグ
1877     オペラ「ブラニーク」Op.50
オペラ「ブラニーク」序曲
ピアノ連弾の為の「バガテル」 Op.19
メロドラマ「花の復讐」
変奏曲 変ロ長調
1878

仮劇場での職から退く。

ロシア正教会の合唱指導の職に就く(〜1881)。

ドヴォジャーク、ジムロックの依頼で「スラヴ舞曲集第1集」Op.46 (ピアノ版)作曲。後に管弦楽版に編曲する。

「6つの歌」 Op.12
メロドラマ「永遠」 Op.14
弦楽四重奏曲ト長調 Op.8
演奏会用ポロネーズ(遺作)
1879  

スメタナ「我が祖国」全曲が完成(3月9日)。スメタナ自身によりプラハ市に捧げられる。

チロル州知事エドゥアルト・ターフェ伯爵、アドルフ・アウエルスペルクの後継として、オーストリア帝国首相に指名される(2月2日)も、最大党派であるドイツ人自由派から閣僚を求めようとして拒否されたことを受け、一旦辞任する(2月15日)。

8月の国会議員選挙でドイツ人自由派に大勝したターフェは、改めて首相となった。

10月7日の国会開会当日、皇帝に「チェコ人覚書」[das Tschechische Memorandum] が提出される。クラム=マルティニツとリーゲルによって作成されたもので、これが後のチェコ語の公用語化の端緒となった。

「ロマンス」変ロ長調 Op.10
「黄昏」 Op.16
1880

ピアノ五重奏曲ホ短調 Op.11が出版される(12月)。

ブラームス、ヨアヒムとプラハで演奏会。ドヴォジャークを訪ねる(2月11日)

老チェコ党、ターフェ内閣との協力により、チェコ語をドイツ語と平等に使用する権利を獲得する(ターフェの言語令、若しくはターフェ・シュトレマイール言語令)。

シェークスピアの物語への交響的絵画「嵐」 Op.46
1881

ロシア正教会の合唱指導の職を退く。

オペラ《ブラニーク》初演(11月25日 新チェコ劇場/チェフ指揮)

バルトークが誕生。
ムソルグスキー亡くなる。

チェコ国民劇場が完成(8月11日)。

スメタナ「我が祖国」初演(8月11日)

チェコ国民劇場が焼失する(8月)。

カンタータ「春のロマンス」 Op.23
大オーケストラの為の交響的絵画「春」Op.13
1882

ストラヴィンスキーが誕生(6月18日)

父が亡くなる(12月2日)

スメタナの連作交響詩「我が祖国」全曲演奏会が大成功を収める(11月5日)

2つのヴァイオリンとピアノの為の「無言歌」ニ長調

1883  

国民劇場が再建される。

ヴァーグナー、ヴェネツィアで生涯を閉じる(2月13日)

ドヴォジャーク、ヴィーンのブラームスを訪ねる(10月)

ブラームス:交響曲第3番ヴィーン初演(12月)

メロドラマ「ヴォドニーク」 Op.15
メロドラマ「女王エマ」
オペラ「メッシーナの花嫁」 Op.18
交響曲第1番ヘ長調 Op.17
Vigilie Op.20
「国民劇場のリオープン」
1884

"Großen theoretisch-praktischen Klavierschule von den ersten Anfängen bis zur virtuosen Kunstfertigkeit mit Benützung von Volksliedern und Kompositionen tschechoslowakischer Komponisten" の執筆に取り掛かる(〜1886)。

オペラ《メッシーナの花嫁》初演(3月28日 国民劇場/チェフ指揮)。

ドヴォジャーク、初のイギリス訪問。ロンドンで自作「スターバト・マーテル」を指揮し絶賛される(3月)

スメタナが亡くなる。(5月12日)

芸術家の家[Rudolfinum](チェコフィルのホームグラウンド)が建設される。

フランク「前奏曲・コラールとフーガ」

1月、オーストリア帝国議会において、言語問題に関するチェコ人とドイツ人の民族的対立が本格化する。

 
1885     ミサ・ブレヴィス Op.21
ピアノ連弾の為の「黄金時代」Op.22
シャコンヌ─即興曲 Op.25
フガートと妖精の踊り Op.24
1886   リストがバイロイトで亡くなる(7月31日)。

ドヴォジャーク「スラヴ舞曲集第2集」Op.72 作曲。

ヤナーチェク、論文「歌に見るスラヴの世界」を発表。この中でホスチンスキーの著作「チェコ音楽のデクラマツィオーンについて」を批判する。

「プラジャークの言語令」により、上級領邦裁判所でもチェコ語の使用を認められるようになった(9月23日)

スメタナのオペラ《売られた花嫁》150回目の上演。(10月3日)

喜劇序曲「カルルシュテインの夜」 Op.26
「ピアノ連弾のためのソナタ」Op.28
1887  

対露関係の悪化により、オーストリア・ドイツ・ロシア間の三帝同盟が崩壊。この後オーストリアとドイツは共に対外的な孤立と相互依存が高まり「ニーベルンゲンの忠誠」と称されるほどになっていく。

「山々から」 Op.29
1888  

ヤナーチェク、フランティシェク・バルトシュ[Brtoš, František] と共に、モラヴィアの民謡収集を始める(~1905年)

プラハのドイツ・ナショナリスト、新ドイツ劇場を建て、ヴァーグナーの《ニュルンベルクのマイスタージンガー》で柿落しを行う。

メロドラマ「ハコン」Op.30
1889

芸術家組合音楽部の議長に選出される(12月)。

ドヴォジャーク、プラハ音楽院が申し出た教授職就任を拒否する。

ドヴォジャーク、オーストリア皇帝より「オーストリア三等鉄王冠章」勲章授与される(6月17日)

メロドラマ「ペロプスの求婚」Op.31
1890

チェコ科学アカデミー会員となる(10月18日)。

フランクがパリで亡くなる(11月8日)。

マルティヌーが誕生(12月8日)。

メロドラマ「タンタロスの贖罪」Op.32
1891

母が亡くなる。

カーネギーホールが完成。

プロコフィエフが誕生。

ドヴォジャーク、プラハ音楽院教授に就任(1月1日)

ドヴォジャーク、ニューヨーク・ナショナル音楽院の院長職就任の依頼を受ける(6月)

メロドラマ「ヒッポダミアの死」Op.33
歌曲集「春の輝き」 Op.36
1892

このころから、アネシュカ・シュルゾヴァー [Anežka Schulzová] との親密な関係が始まる。

メロドラマ《ペロプスの求婚》で大成功を収める。(6月3日)

スメタナのオペラ《売られた花嫁》200回目の上演。(5月8日)

ドヴォジャーク、9月27日にニューヨークに到着。10月よりニューヨーク・ナショナル音楽院の校長として教鞭を執る。

スクがメンバーとなっている名前のなかった弦楽四重奏団、リフノフ・ナド・クニェシュナ [Rychnov nad Kněžna] での演奏会に出演の際に初めて「ボヘミア四重奏団」[České kvarteto] の名を使用する(11月13日)。

祝典序曲「コメニウス」 Op.34
1893

姉が亡くなる

交響曲第2番Op.38 初演

ドヴォジャーク・交響曲第9番「新世界より」

チャイコフスキーが亡くなる。

アロイス・ハーバ [Alois Hába] が誕生。

ターフェ内閣、男子普通選挙の導入を計画したが既存の諸勢力の支持を得られず、退陣に追い込まれれる。

交響曲第2番変ホ長調 Op.38
管弦楽の為の牧歌「黄昏」Op.39
ピアノ五重奏曲ニ長調 Op.42
1894  

ドビュッシー「牧神の午後への前奏曲」

オペラ「嵐」 Op.40
「気分、印象と追憶」Op.41
ピアノ連弾の為の「バガテル」第2集 Op48
1895  

ドヴォジャーク、ナショナル音楽院の職を辞し、アメリカより帰国する。(4月)

ドヴォジャーク、プラハ音楽院に復職。(11月1日)

オペラ「ヘディ」 Op.43
「気分、印象と追憶」Op.44
歌曲集「蕾」 Op.45
1896  

ブルックナーが亡くなる(10月11日)。

「気分、印象と追憶」Op.47
1897

ベッティと息子を残して独りで家を出て、プシュトロス通り [Pštrossová] に移り住む(秋)。
(「プシュトロス」は、チェコ語で「駝鳥」の意)

ブラームスが亡くなる(4月3日)

ドヴォジャーク、オーストリア国家奨学金の審査員に推挙される。(7月)

作曲家のカレル・ベンドル [Karel Bendl] が亡くなる。(9月20日)

ヤナーチェク、「発話旋律」理論の展開を始める。

青年チェコ党に支持されたバデーニ内閣、チェコにおける全官吏にチェコ語の使用を義務付ける(1897年の言語令)が、オーストリア全土のドイツ人から激しく反発を招いた。

オペラ「シャールカ」Op.51
1898

重い猩紅熱にかかる。(5月)

ガーシュウィンが誕生。

ヨゼフ・スク、ドヴォジャークの娘オチリエ(オティーリエ) [Otilie Dvořáková, 6.VI.1878-6.VII.1905] と結婚(11月17日)。

管弦楽組曲「田舎の印象」Op.54
演奏会用序曲「オルドジフとボジェナ」 Op.52
交響曲第3番ホ短調 Op.53
オペラ「ヘルガ」(《アルクンの陥落(アルコナの陥落)》) Op.55
「気分、印象と追憶」Op.57
1899

国民劇場のオペラの演出を担当する(2月11日)

パヴェル・ハースが誕生(6月22日)。

オペラ「ダルグン」(《アルクンの陥落(アルコナの陥落)》) Op.60
「画家の作品」 Op.56
1900

国民劇場のオペラの演出担当の任から退く(6月)

フィビヒ亡くなる(10月15日/49歳)。
翌日には「国民新聞」一面に訃報が、同18日の二面にはオタカル・ホスチンスキーらによる追悼文が掲載される。

オペラ《アルクンの陥落(アルコナの陥落)》初演(11月9日 国民劇場/コヴァジョヴィツ指揮)

   
1901

ベッティが亡くなる(5月20日)。

ズデニェク・ネイェドリー[Nejedlý, Zdeněk, 1878-1962]による「ドヴォジャーク批判」がこの頃から始まる。

ヴェルディが亡くなる(1月27日)。

ドヴォジャークのオペラ《ルサルカ》初演(3月30日 国民劇場/コヴァジョヴィツ指揮)

ドヴォジャーク、プラハ音楽院院長に就任。但し院長の実務は同僚のカレル・クニットルが担った。(7月)

ラフマニノフ「ピアノ協奏曲第2番」

 
1902  

スメタナのオペラ《売られた花嫁》400回目の上演。(1月1日)

 
1904  

ヤナーチェク オペラ《イェヌーファ》初演(1月21日)

ドヴォジャークのオペラ《アルミダ》初演(4月25日 国民劇場/ピツカ指揮)

ドヴォジャークが亡くなる。(5月1日)

 
1905

アネシュカ・シュルゾヴァー、自ら命を絶つ。