| 西暦 | 出来事 | 関連事項 |
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| 1850 | ズデニェク・フィビヒ(フィビフ)、ボヘミアのフシェボジツェ [Všebořice] 村に誕生(12月21日)。洗礼名はZdenko ズデニェクの父・ヤン [Jan Fibich, 1810 - 1882-12-02]はアウエルスペルグ [Auersperg] 伯に仕える森林官、母・マリー [Marie Römischová, 1823 - 1891-03-30]はドイツ語を話すウィーン出身の女性だった(母の実家は織物製造業者)。 |
この当時のチェコは、オーストリア帝国の領土に組み入れられていた。 スメタナ26歳 ドヴォジャーク9歳 |
| 1854 | L.ヤナーチェクが誕生(7月3日) | |
| 1856 | R.シューマンが亡くなる(7月29日) スメタナ、ドライショック[Alexander Dreyshok, 1818-1869]から、スウェーデンのイェーテボリでのピアノ教師の職を進められ、同地に赴く(10月)、同地では、ピアニスト、合唱指揮者として活躍する。 |
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| 1859 | この年以降、母より音楽の手ほどきを受ける。 また、ウィーンでヘルマンの公立基幹学校に通い始める(〜1862)。 |
J. B. フェルステル[Foerster, Josef Bohuslav]が誕生(2月22日)。 |
| 1860 | スメタナ、スウェーデンのイェーテボリからプラハに帰還。 カリシチェ村に、グスタフ・マーラーが誕生 |
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| 1862 | ヘルマンの公立基幹学校を終え、やはりウィーンのギムナジウムに通う(〜1863)。 この年から作曲を始めている。 |
スメタナと、ドヴォジャークのパトロンであるリーゲル[Rieger, František Ladislav]との間で、「国民音楽」を巡る論争が始まる。 ドビュッシーが誕生。 |
| 1863 | ウィーンのギムナジウムを後にし、プラハのチェコ・ギムナジウム [českého malostranského gymnázia v Praze] に通い始める(〜1865)。
母より、自宅にてピアノを教わる。 また、フランティシェク・チェルニー [Černý, František] の勧めにより、最初の作曲を手掛ける。 |
スメタナ、プラハ芸術家協会の音楽部長に就任。 スメタナ、共同で私設音楽学校を開校。 ブラームス「パガニーニの主題による変奏曲」 |
| 1864 | ジークムント・コレショフスキー [Kolešovský, Zikmund / 1817-1868] の私設音楽学校に通う(〜1865)。 また、スメタナ[Smetana, Bedřich / 1824-1884]にも指導を受ける。 この結果、ギムナジウムの勉学はおざなりになる。 スメタナの強い後押しにより、聖イグナツ教会のオルガニストに就任する。 |
ヴァーグナー「トリスタンとイゾルデ」ミュンヘン初演。 ピアノメーカーのペトロフが創業。 |
| 1865 |
音楽の勉強に専念する為、復活祭の日に、チェコ・ギムナジウムを退学する。 交響曲変ホ長調(番号なし)の2つの楽章が、作曲家のアロイス・フニリチカ [Hnilička, Alois] の手で編曲され、フルジム [Chrudim] で開かれた演奏会で上演された(4月6日) 10月6日、遠戚のヴァイオリニスト・ドライショック[Dreyschock, Raymund / 1824-1869]の援助を得てライプツィヒ音楽院に入学し、作曲とピアノを学ぶ(在籍:〜1866年のクリスマス)。 ピアノをモシェレス、和声をリヒターに学び、同時にプライベートレッスンで対位法をヤダスゾーン [Jadassohn, Samuel(Salomon?) / 1831-1902] (「芸大和声」以前の日本では、この人の和声体系が使われていたそうである)に学んだ(〜1867年5月)。 この年の半ばまでに50ほどの作品を書き上げた。これらのうち大部分はピアノ曲で、そのうちの1つはOp.1 として、この年に出版された。他には歌曲、序曲、"ロメオとジュリエット" のための後奏曲、弦楽四重奏形態による交響曲第3番のためのスケッチなどが含まれている。 |
シベリウスが誕生。 |
| 1866 | E-mollのスケルツォ(後に「2つのスケルツォ」Op.4 のうちの1曲となる)が書かれる。 ライプツィヒ音楽院での勉学を終える(クリスマス)。 |
スメタナ、仮劇場の主席指揮者に就任(9月15日) モスクワ音楽院創立。 ブゾーニが誕生。 |
| 1867 | ヤダスゾーンのプライベートレッスンを終える(5月)。 ライプツィヒでの勉学を終え、1年余りを両親と共にリバーニュ [Libáň] 、ジャーキー [Žáky] で過ごす。 |
オーストリア=ハンガリー二重帝国が成立。 |
| 1868 | ピアニストとしての経験を積む為、パリへ向かう。(7月19日) パリでピアノ教師で生計を立てる傍ら、関心のあった美術,彫刻を学ぶ。 |
チェコ国民劇場の建設が始まる |
| 1869 | マンハイムで音楽の勉学の仕上げをする(〜1970)。 | ベルリオーズが亡くなる。 |
| 1870 | マンハイムでの勉学を終え、両親と共にジャーキー [Žáky] 村に移り住む(〜1871)。 | スメタナとピヴォダ [Pivoda, František]との間で「国民音楽」についての論争が始まる。 V.ノヴァークが誕生(12月5日) |
| 1873 | 製粉所の娘ルージェナ・ハヌショヴァー [Růžena Hanušová] と結婚する(2月20日)。 また、秋にはリトアニアのヴィリニュスで合唱指導の職に就く。 |
ラフマニノフが誕生。 レーガーが誕生。 |
| 1874 | 1月にリハルトとエルサの双子が誕生したが、リハルトは生後わずか数時間後に亡くなってしまう。 ルージェナの看病に来ていた姉も亡くなる。 10月には、ルージェナも亡くなる。 |
スーク、シェーンベルグが誕生。 スメタナ、聴覚を失い、仮劇場指揮者を辞任(10月20日)。 |
| 1875 | ルージェナの生前の願いにより、フィビヒはルージェナの姉で、4歳年上のベッティ [Betty / 1846-1901] (仮劇場〜国民劇場の名コントラルト歌手で、スメタナやフィビヒの作品にも出演していた)と結婚する(5月23日)。 仮劇場(後のチェコ国民劇場)の音楽副監督と合唱監督の職に就く(〜1878)。 父が亡くなる。 |
ラヴェル生誕。 ビゼー亡くなる。 |
| 1876 | ルージェナが生んだ双子のうち、残った方のエルサも亡くなってしまう。 ベッティとの間にリハルト [Richard / 1876-1950] が誕生。 |
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| 1878 | 仮劇場での職から退く。 ロシア正教会の合唱指導の職に就く(〜1881)。 |
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| 1880 | 老チェコ党、ターフェ内閣との協力により、チェコ語をドイツ語と平等に使用する権利を獲得する(ターフェの言語令)。 | |
| 1881 | ロシア正教会の合唱指導の職を退く。 | バルトークが誕生。 ムソルグスキー亡くなる。 チェコ国民劇場が完成(6月11日)。 スメタナ「我が祖国」初演(6月11日) チェコ国民劇場が焼失する(6月12日)。 |
| 1882 | 父が亡くなる(12月2日) | スメタナの連作交響詩「我が祖国」全曲演奏会が大成功を収める(11月5日) |
| 1883 | 国民劇場が再建される。 | |
| 1884 | "Großen theoretisch-praktischen Klavierschule von den ersten Anfängen bis zur virtuosen Kunstfertigkeit mit Benützung von Volksliedern und Kompositionen tschechoslowakischer Komponisten" の執筆に取り掛かる(〜1886)。 | スメタナが亡くなる。(5月12日) 芸術家の家[Rudolfinum](チェコフィルのホームグラウンド)が建設される。 フランク「前奏曲・コラールとフーガ」 |
| 1886 | 「ピアノ連弾のためのソナタ」Op.28 作曲 | リストが亡くなる。 |
| 1890 | マルティヌーが誕生。 フランクが亡くなる。 |
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| 1891 | 母が亡くなる。 | カーネギーホールが完成。 プロコフィエフが誕生。 |
| 1892 | ドヴォジャーク、ニューヨーク・ナショナル音楽院の校長に就任する。 | |
| 1893 | 姉が亡くなる このころから、アネシュカ・シュルゾヴァー [Anežka Schulzová] との親密な関係が始まる。 交響曲第2番Op.38 初演 「黄昏」Op.39 作曲 |
ドヴォジャーク・交響曲「新世界より」 チャイコフスキーが亡くなる。 |
| 1894 | ドビュッシー「牧神の午後への前奏曲」 | |
| 1895 | ドヴォジャーク、ナショナル音楽院の職を辞し、アメリカより帰国する。(4月) ドヴォジャーク、プラハ音楽院に復職。(11月1日) |
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| 1897 | ベッティと息子を残したまま、プシュトロス通りに独り移り住む(秋) | ブラームスが亡くなる(4月3日) ヤナーチェク、「発話旋律」理論の展開を始める。 青年チェコ党に支持されたバデーニ内閣、チェコにおける全官吏にチェコ語の使用を義務付ける(1897年の言語令)が、オーストリア全土のドイツ人から激しく反発を招いた。 |
| 1898 | 重い猩紅熱にかかる。(5月) | ガーシュウィンが誕生。 |
| 1899 | 国民劇場のオペラの演出を担当する(2月) | パヴェル・ハースが誕生(6月22日)。 |
| 1900 | 国民劇場のオペラの演出担当の任から退く(6月) フィビヒ亡くなる(10月15日/49歳)。 |
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| 1901 | ベッティが亡くなる。 | ズデニェク・ネィエドリー[Nejedlý, Zdeněk, 1878-1962]による「ドヴォジャーク批判」がこの頃から始まる。 ドヴォジャーク、プラハ音楽院院長に就任。(7月) ラフマニノフ「ピアノ協奏曲第2番」 |
| 1904 | ドヴォジャークが亡くなる。(5月1日) | |
| 1905 | アネシュカ・シュルゾヴァー、自ら命を絶つ。 |