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関連する用語と人名についての簡単な説明。
当時の時代背景に関係が深い政治用語や、民族音楽の様式などについて、フィビヒが作曲しなかったものも含め取り扱う。

用語

目次

民族音楽

ドゥパーク [Dupák]
ボヘミアの民族舞踊。 輪になって踊る。速い動きと陽気な性格の踊りで、しばしば足を踏み鳴らす。
"Dupák" の語源は、この「踏み鳴らす」のチェコ語(dupat) から来ている。
2/4拍子:"Nevdávej se, má panenko"(K. J. エルベン 第471曲)
3/4拍子:"Pásla ovečky" (K. J. エルベン 第505曲)
フリアント [Furiant]
セドラーク [Sedlák] とも呼ばれ、最も有名で興味深い舞曲の一つである。
楽譜上は 3/4 拍子で書かれるが、主要な動機の前に "2+2+2+3+3" の組み合わせのリズムを持つフレーズが置かれる。
Nálady, dojmy a upomínky, č.263 Furiant
このリズムと急速なテンポが相俟って、力強さと推進力を感じさせる。
フリアントで書かれた曲としては、ドヴォジャークの《スラヴ舞曲集》の Op.46-1 と Op.46-8 が有名だが、他にもスメタナの《チェコ舞曲集》第2集の第1曲、フィビヒの「大いなる理論的実用的なピアノの為の授業」 のソナチネの終楽章、《気分、印象と追憶》 の第263番(Op.47-59)、V. ノヴァークの「若さ」のOp.55 の第20曲、「3つのボヘミア舞曲」Op.15 の第3曲などがある。
プラーツァヴァー [Plácavá]
ボヘミアの民族舞踊。案山子(かかし)に似ている。踊りながら互いに手を叩く。
K. J. Erben の民謡集に例がある。
ポルカ [Polka]
2/4拍子のボヘミア民族舞踊で、世界中に広まった。
アンナ・スレザーコヴァー [Anna Slezáková] が1830年にラブスカー・チーニツェ [Labský Týnice] で、民謡の Strejček Nimra koupil šmla(エルベン:メロディー613、マラート:秘められた宝4)の旋律として考案し、「ニムラ」 [nimra] 即ち「マヂェラ」[maděra] (マジャール [maďar] を意味する)と名付けられた。
出版された最初のポルカは、コピドルノ [Kopidlno] で教師をしていた ヒルマル [Fr. Hilmar] が作曲した。 最新の研究によると、1830年のポーランド革命(十一月蜂起)に対する2つの共感におけるポーランドの民族舞踊クラコヴィアク [Krakowiak] の反響のようにして興った。
スメタナは、ピアノの為の幾つかの華麗な演奏会用ポルカを私達に遺した。 また、オペラ《フビチカ》[Hubička] の中のポルカは真のチェコの特徴に優れていた。
セドラーク [Sedlák]
チェコ語で「農民」を意味する。舞曲としてはフリアントと同義。
→ フリアント
スコチナー [Skočná]
ボヘミアの民族舞踊。2/4拍子の舞曲で、輪になって踊る。
トジャサーク [Třasák] に似た、滑稽な性格を持つ。
B. スメタナのオペラ「売られた花嫁」 [Prodaná nevěsta] 第3幕第2場に登場する。
スレピチカ [Slepička]
「スレピツェ」[slepice] とも。
slepice は「雌鳥」の意で、slepička は「小さな雌鳥」を意味する。
2/4拍子のボヘミア舞曲。踊り或いは細かいステップは、穏やかで速い動き。
B. スメタナの「チェコ舞曲」と Al. イラーンカの「2つのチェコ舞曲」
ソウセツカー [Sousedská]
"Sousedská" は、チェコ語で「隣人の、友好的な」などの意味を持つ。
この舞曲は 3/4拍子のゆったりしたテンポのチェコ民族舞踊で、ドイツの「レントラー」を思わせる。
フィビヒは管弦楽組曲「田舎の印象」Op.54 の第2曲としてソウセツカーを作曲している。
他、ドヴォジャークの「スラヴ舞曲集」第1集の第4曲(Op.46-4)、同第2集第8曲(Op.72-8)、V.ノヴァークのピアノ曲「3つのボヘミア舞曲」第2曲(Op.15-2)もこの舞曲として作曲されている。

その他音楽

フス派 [Husiství]
ヤン・フス [Jan Hus, *1370; †1415] を始祖とするキリスト教改革派。
フスは、キリスト教聖職者で宗教改革者。カレル大学の学長を務めたほかにもチェコ語の正字法も手掛けるなど、チェコの民族教育にも力を注いだ。フスの宗教改革の思想の源流は、イギリスのウィクリフにまで遡る。 フスが説いたウィクリフの命題は、当時のボヘミア領内で禁止されていた為、フスはプラハ大司教、ローマ教皇から破門された。1415年、フスはコンスタンツ公会議に召喚されたが、皇帝の発行した通行書を携えていたにもかかわらず逮捕され、法廷でも自説の撤回を拒否した為、異端の罪で火刑に処せられた。この処置に激怒したフス派教徒は反乱を起こし、これがフス派戦争へと繋がっていく。
フスは後にチェコ人から彼は民族的英雄と見做され、特に19世紀の対オーストリア帝国の民族運動ではチェコ人の精神的支柱となった。
また、1872年にイステブニツェで当時ターボルのギムナジウムに通う少年だったレオポルト・カッツ [Leopold Katz] が発見したフス派の賛美歌 (Jistebnický kancionál 《イステブニツェの賛美歌》)が世に知られるようになると、スメタナらは自作の民族主義的な作品にこれを引用するようになった。
メロドラマ [Melodram]
メロドラマとは、一言でいうと「朗読+音楽」という形式の芸術である。
「物語に背景音楽をつけたもの」と考えてよかろう。
嘗てこのジャンルは、バロック時代のヤン・ディスマス・ゼレンカ [Jan Dismas Zelenka] も作品を遺しているが、これはどちらかというとオラトリオとも言うべきもので、朗読ではなく歌になっている。
そうしたものを別とすれば、このジャンルは古典派時代、ジャン・ジャック・ルソーの《ピグマリオン》(1773年) [Pygmarion / J. J. Rousseau] (但し、音楽の殆どはコワニェが作曲したもの)と、ゴータの宮廷楽長イジー・アントニーン・ベンダ(ゲオルク・アントン・ベンダ) の《ナクソスの女王アリアドネ》(1774年) [Ariadne auf Naxos, 1774] によって始まった。ベンダの《ナクソスの女王アリアドネ》は、ルソーの《ピグマリオン》の成功を目の当たりにしたザイラー劇団の依頼により作曲されたものであった。(*) W. A. モーツァルトはベンダの《ナクソスのアリアドネ》と《メディア》を聴き、1778年11月12日にマンハイムから送った父への手紙の中で、この2つのメロドラマを絶賛した。 (*) (**) メロドラマはベンダの《ナクソスのアリアドネ》上演以降、20年ほど流行が続いたが、その後は下火になったという。その一方、近い時代ではR. シュトラウスや F. リスト、J. シベリウスなども手がけている。
19世紀後半、フィビヒが6つのメロドラマを作曲し、更にメロドラマをオペラ並みの規模の総合芸術に拡張した「三部作《ヒッポダミア》」を世に送り出した。この業績を以ってフィビヒは「近代チェコ・メロドラマの創始者」と目される存在となった。
現代のチェコでは、クラシックに限らず様々なジャンルの音楽家達がメロドラマを手掛けている (例えば、ロックミュージシャンのフィリプ・トポルの作品がある [Střepy / Filip Topol])
仮劇場 [Prozatímní divadlo]
プラハ国民劇場落成までの仮の劇場として作られた、木造建築の劇場。「仮」とはいいながら、結局のところ20年ほど利用された。
スメタナは1866年9月5日から首席指揮者になり、そのオーケストラでドヴォジャークはヴィオラ奏者を務め、フィビヒは1875年から1878年にかけて音楽副監督と合唱指揮の任にあたった。
活人画 [živý obraz]
然るべき装いをした生身の人間が無言でポーズを取り数分間にわたって静止して、絵画的な情景を演じたもの。18 世紀半ばに上流階級の娯楽として発展したが、古くは中世末期から近世初期にかけてアルプス以北で行われた「入市式」(その都市を統治する君主が訪れたり配偶者を迎えたりする際、または賓客が来訪する時に行われた儀式)で「入市」する者へ市民からのメッセージを伝える為に演じられたものに遡る(但しその当時には 18 世紀半ば以降の意味での「活人画」を表す用語はなかった)。
18 世紀半ば以降の活人画は、(著名な)絵画や彫刻、歴史的場面を、生きた人間が静止し衣装やポーズによって再現するものであった。これらは上流階級の人々のプライベートな場で行われる娯楽の一つとなっていた。19 世紀後半に入ると帝国主義や民族主義の時代となり、活人画は国家意識或いは民族意識を高揚する各種イベントで演じられるようになっていく。この時期の活人画は名画の再現ではなく、イベントの開催趣旨に相応しい物が構想され、国家的なイベントでは君主の事績の称揚、民族主義的イベントでは民族の歴史といったものが主題となった。
上演に際しては、上演前に前奏曲、上演中の各景毎に伴奏音楽が演奏された。

人物

イジー・アントニーン・ベンダ [Jiří Antonín Benda, *1722; †6.XI.1795]
古典派時代のヴァイオリニスト・作曲家。 ボヘミア出身だがドイツで活躍し、ドイツ名のゲオルク・アントン・ベンダという名前も使った。 ボヘミアのベンダ一族は、ドイツのバッハ一族のように大小数多くの音楽家を輩出した家系として知られている。
ヴァイオリニスト・作曲家だった兄のフランチシェク・ベンダ [*25.XI.1709; †7.III.1786] に手ほどきを受ける。
1742年からベルリンの宮廷ヴァイオリニストを務め、1750年にはベルリンを辞してゴータ [Gotha] (現在の独テューリンゲン州ゴータ郡)でフリードリヒ三世の宮廷楽長となる。
1774年にザイラー劇団の依頼で作曲したメロドラマ《ナクソスの女王アリアドネ》が成功を収めると、以後メロドラマの人気は20年ほど続いた。
カレル・ベンドル [Karel Bendl, *1838; †20.IX.1897]
作曲家。
裕福な家庭の出で、親交のあったドヴォジャークに対しては、ドヴォジャークがまだ無名で貧しかった頃にピアノが弾けるよう取り計らうなどの支援をしている。
アドルフ・チェフ [Adolf Čech, *11.XII.1841; †27.XII.1903]
指揮者・作曲家。
指揮者としては、スメタナ、ドヴォジャーク、フィビヒらの作品を多数初演した。
チェフが作曲した「マズルカ」は、フィビヒが編纂した「クリスマス・アルバム」に収録されている。
カレル・ヤロミール・エルベン [Karel Jaromír Erben, *1811; †1870]
フォークロア作品を蒐集・出版し、チェコ文学に貴重な遺産を遺している。この分野における業績としては、ボジェナ・ニェムツォヴァー [Božena Němcová] と共によく知られた存在。
民話や伝説に基づく詩集「花束」[Ktice] や民謡集がよく知られている。
「花束」に収められた作品は、フィビヒのメロドラマやドヴォジャークの交響詩の題材になっている。
ルージェナ・ハヌショヴァー [Růžena Hanušová, *1851; †1874]
Fibichの1歳下になる最初の妻。製粉所の娘だった。結婚の約1年後に2人の子供を産んだが、産後の肥立ちが悪かったらしく、Fibichの姉・Marie の看護も虚しく、亡くなってしまう。
自分亡き後の子供を抱えた夫を憂えたのか、まだ嫁に行っていない自分の姉の将来を憂えたのかは分からないが、彼女は夫に「自分の姉と一緒になってくれるように」と頼んで亡くなった。
彼女が産んだ双子の子は、すぐに亡くなってしまった(リハルトは生後間もなく、エルサは2年後にそれぞれ亡くなっている)。
ベッティ・ハヌショヴァー [Betty Hanušová, *1846; †1901]
ルージェナの姉。そしてFibichの2番目の妻。年齢は、Fibichより4歳上だった。
仮劇場(後の国民劇場)の人気歌手で、SmetanaFibichのオペラ作品に出演していた。
ルージェナの死に際しての願いによって、Fibichの2人目の妻となった。1人の子供(この子も、名をリハルトという)を儲けた。
尚、子のリハルトは後年、医学博士になっている。
リハルト・フィビヒ [Richard Fibich, *1876; †1950]
Fibichと2番目の妻・ベッティとの間に生まれた子。同じ名前の異母兄がいたが、そちらは生後間もなく亡くなっている。
医学博士となり、プラハ南西に位置する街プシーブラム [Příbram] で医業を営んでいた。
オタカル・ホスチンスキー [Otakar Hostinský, *2.I.1847; †19.I.1910]
美学者・音楽学者。カレル大学で教鞭を執った。
進歩派の指導的存在だったスメタナを擁護し、フィビヒにとっては生涯に渡って友人であり助言者であった。
フィビヒが亡くなった際には国民新聞 [Národní listy] に追悼文を寄稿し、没後3日の1900年10月18日に掲載された。
インジヒ・カーン・ズ・アルベストゥー [Jindřich Kàan z Albestů, *1852; †1926]
作曲家、音楽教師、ピアノの名手であった。
1852年5月29日、タルノポル [Tarnopol] (現ウクライナ共和国テルノピリ [Тернопіль] )に生まれ、ボヘミアのクラトヴィ [Klatovy] で育った。プラハのプロクシュ [Proksch] の音楽学校でピアノと作曲を学び、プラハ・オルガン学校でブロデク [Blodek] にも学んだ(1873-4)。
1876年には、ラーニ [Lány] にあるフュルステンベルク家 [Fürstenberg] の領地で、同家の音楽教師を務めた。
1884年にプラハに戻ると、同年のドヴォジャークの最初の渡英(ロンドン・フィルハーモニー協会の招待による)に同行した。
1889年にプラハ音楽院でピアノ教師となり、その後1907年から1918年にかけて同音楽院の院長を務めた。カーンの権威主義的なやり方は不評ではあったが、彼のヴィーンとの良好な関係によって音楽院は発展した。例えば1909年、彼はヴィーチェスラフ・ノヴァークの下で作曲のマスタークラスを制定した。
またカーンは同時代におけるチェコの最も優れたピアニストの一人であり、その彼の手による多数の編曲は、スメタナを始めとするチェコの作曲家たちの作品を広める役割を果たした。
チェコ共和国成立後の1926年5月7日、ボヘミアのターボル [Tábor] で死去。
フィビヒのピアノ連弾作品《バガテル》第1集 Op.19 を献呈されている。
カレル・クニットル [Karel Knittl, *4.X.1853; †17.III.1907]
ポルナー [Polná] に生誕、1869-75 にプラハでスクヘルスキー [Skuherský, *31.VII.1830; †19.VIII.1892] 、 ピヴォダ [František Pivoda, *19.X.1824; †4.I.1898] 及びスメタナに学んだ。
スメタナに対して批判的な立場を取っていた。
1877-1901 プラハの様々な学校で合唱を指導。1877–1890 と 1897–1901 には「フラホル」のコーラスマスターを務めた。 1882 年にプラハ・オルガン学校のオルガンと和声の教師となり、1889 年には和声と器楽理論の教師となった。
1892年には、生誕300周年を迎えたコメンスキー(コメニウス)を称えるイベントがボヘミア・モラヴィア各地で開催され、その幾つかの地で、クニットルが作曲した《J. A. コメンスキー生誕300年祭の為のカンタータ》が上演された。同様の目的で他の作曲家によって作曲された作品も幾つかあるが、この作品は、それらの中で最も多く上演された作品と考えられる。
1901 にドヴォジャークと共同でプラハ音楽院の監督者となり (名目上はドヴォジャークが院長となったが、院長の実務はクニットルが取り仕切った)、1904年にドヴォジャークが死去すると、引き続き単独でその任に当たった。
ヤン・マラート [Jan Malát]
作曲家・指揮者。
音楽辞典の編纂やスロヴァキア民謡の蒐集も行っている。
フィビヒと共著のピアノ教本 Velká theoreticko-praktická škola pro piano がある。
ズデニェク・ネイェドリー [Zdeněk Nejedlý, *1878; †1962]
歴史家、音楽学者・批評家、政治家。
カレル大学でゴルに歴史学を学んだ他、オタカル・ホスチンスキーにも師事、フィビヒからは私的に音楽学を学んでいる。
1905年からプラハ大学で音楽学を教えており、当初はフス派運動期の音楽文化の研究に従事。音楽史を民族誌の中で体系的に把握しようとする構想は、後に彼のライフ・ワークとなるスメタナ研究に繋がった。
第1次大戦後にチェコスロヴァキア共産党に接近し、1929年入党。ドイツによる占領後はロシアに逃れてチェコスロヴァキア共産党と協力、第2次大戦後には共産党中央委員会入りして党の文化・教育政策を積極的に推進している。
1948年、独立チェコスロヴァキア共和国の文化大臣に就任した。
1952年、チェコスロヴァキア科学アカデミーが復興するとその総裁に就任(死去まで在任)。
スメタナと師・フィビヒの進歩派を支持し、当時の楽壇でその対立軸であった保守派を非難した(ドヴォジャーク批判)。
彼の苗字「ネイェドリー」[Nejedlý] は「喰えない・食用でない」を意味するチェコ語の形容詞に由来する。
(*)
フランティシェク・ピヴォダ [František Pivoda]
歌曲作家、声楽教師、"Pokrok"(進歩)誌の音楽文芸部記者。
Dvořákを支持しており、反スメタナ派の論客の一人。
1870年以降スメタナに対し「国民音楽」を巡る論戦を挑む。更にはスメタナを仮劇場首席指揮者の座から引きずり降ろすべく手を尽くした。
フランチシェク・ラディスラフ・リーゲル [František Ladislav Rieger, *1818; †1903]
オーストリア帝国のチェコ人政治家。保守的な政党「老チェコ党」の指導者。
1879年10月7日の国会開会日に、ハインリヒ・クラム=マルティニツと共に「チェコ人覚書」をオーストリア皇帝に提出した。これは官庁と裁判所、大学におけるチェコ語の地位向上などを求めるもので、後にチェコ語が公用語化される一連の政治的出来事の端緒となった。 1867年に「ハンガリー和協」により「オーストリア=ハンガリー二重帝国」が成立すると、これにボヘミア人が反発し、「ボヘミア国法宣言」を発表し、ボヘミア人議員が議会をボイコットする事態に発展した。1871年、ボヘミア人議員を議会に復帰させようとしたオーストリア政府はボヘミアの自治を計画した(「ボヘミア和協」)。この「ボヘミア和協」にはリーゲルとクラム=マルティニツが関与しており、その中でもリーゲルはボヘミアにおけるボヘミア人とドイツ人の民族的平等を保証する「民族法」の成立に取り組んだ。 彼はチェコ人の独立のために重要な仕事をした政治家の一人と言っていい。
楽壇への影響としては、ドヴォジャークを擁護する一方、「(音楽に於いてチェコ民族の)民族色を表出するには、民謡の引用と模倣とだけで十分である」との立場を取っており、これはスメタナのそれとは相反するものであった。実際、彼はスメタナらに対して批判的であった。 ただ、皮肉なことには、その彼が支持したドヴォジャークも「モラヴィア二重唱」作曲の経緯をみると「単なる民謡の引用」を良しとする考え方に必ずしも与していたとはいえなかった。
1861年、プラハでチェコ語の新聞「国民新聞」[Národní listy] を創刊した(1941年廃刊)。
1891年に、彼の老チェコ党と対立する「青年チェコ党」に帝国議会選挙で敗れて議席を失い、政界から引退した。
1858-1874年にかけて、ボヘミア初の百科事典を出版している。
フランチシェク・パラツキー(オロモウツに、彼の名を冠した国立大学がある)はリーゲルの義父にあたる。
(*1) (*2) (*3) (*4)
アネシュカ・シュルゾヴァー [Anežka Schulzová, *24.III.1868; †4.XI.1905]
Anežka Schulzová (1898)
著名な作家フェルディナント・シュルツ [Ferdinand Schulz, *17.I.1835; †16.II.1905] の娘として生まれた。叔父にはエドゥアルトとユリウスのグレーグル兄弟 [Eduard Grégr (*4.III.1827; †5.V.1907) a Julius Grégr (*19.II.1831; †4.X.1894)] がいる。
フランス文学をチェコ語に翻訳して紹介したり、小説を発表するなどしており、才女として知られる存在であった。
1893年頃から、自身が作曲を師事していたフィビヒと親密な間柄になった。その関係から生まれたフィビヒの作品は、連作ピアノ曲集《気分、印象と追憶》を始め、アネシュカの台本によるオペラ《ヘディ》《シャールカ》《アルクンの陥落(アルコナの陥落)》などがある。
カール・ルートヴィヒ・リヒター [Carl Ludwig Richter] というペンネームを使用しており、1900年にはこの名義でフィビヒについての本をドイツ語で上梓している。(Zdenko Fibich) また、Fibich の死後、1902年の雑誌「花々」("Květy")誌に思い出を綴った記事を寄稿した。(ZDENKO FIBICH hrstka upomínek a intimních rysů)
Fibichの死後5年後に自殺。
オタカル・ショウレク [Otakar Šourek, *1883; †1956]
音楽学者、作家。
ドヴォジャーク研究の著書がある。
ネィエドリーの「ドヴォジャーク批判」に対し、ドヴォジャークを擁護する言論を行った。
ヤロスラフ・ヴルフリツキー [Jaroslav Vrchlický, *1853; †1912]
近代西欧派の詩人・小説家。批評家、翻訳家としても活躍した。
1901年、ドヴォジャークと共にオーストリア帝国貴族院議員に列せられている。
フィビヒの創作に於いては、以下の作品の台本や原詩を書いている:
  • 《山から》Op.29
  • メロドラマ《ハーコン》Op.30
  • 三部作《ヒッポダミア》
    • 《ペロプスの求婚》Op.31
    • 《タンタロスの贖罪》Op.32
    • 《ヒッポダミアの死》Op.33
  • 歌曲《春の輝き》Op.36 (第1曲)
  • オペラ《テンペスト》Op.40
  • メロドラマ《花の復讐》遺作
  • メロドラマ《女王エマ》遺作
この他、ドヴォジャークのオラトリオ《聖ルドミラ》の台本も書いている。
ドヴォジャークの伝記を書いたクルト・ホノルカはその著書の中で彼の仕事や才能を褒めたりけなしたりしていて、結局どっちなのかわからない。