Jan Václav (Jan Hugo) Voříšek : Osoba a terminologie
ヴォジーシェク:人物と用語



人物

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン [Ludwig van Beethoven, 16.XII.1770-26.III.1827]
ベートーヴェンは、ジジウスが主催する音楽会でヴォジーシェクと知り合いました。
1814年、ベートーヴェンは、ヴォジーシェクがその年に作曲し始めた「12の狂詩曲」を見て、賞賛しています。
ヴォジーシェクが生まれた年、ベートーヴェンは丁度二十歳と考えられます(ベートーヴェンの正確な誕生日は分かっていない為)。
ベルナルト・ボルツァーノ [Bernard Bolzano]
カトリック司祭で神学の教師。イタリア系チェコ人。プラハ大学に学び、同校で教職に就いたものの、後にその職を追われています。
当時は物議を醸すこともありましたが、今日では世界的に著名なヒューマニストの一人と見られています。
学生時代のヴォジーシェクを指導した一人でした。
著書の一つに数学書「無限の逆説」があり、1978年に邦訳(藤田伊吉・訳/みすず書房)が刊行されていました。
ニコラウス・ズメスカル・フォン・ドマノヴェツ [Nicolaus Zemesskall von Domanowetz]
チェロ奏者。1898年からはベートーヴェンとの親交を持ちました。ベートーヴェンは弦楽四重奏曲第11番「セリオーソ」Op.95 をドマノヴェツに献呈しています。
ヴォジーシェクは彼の家に招かれて、ピアノ連弾などを演奏しています。
ヤン・ラディスラフ・ドゥシーク [Jan Ladislav Dusík, 12.II.1760-20.III.1812]
作曲家、ピアニスト。
チェコ語ではドゥシーク [Dusík] ですが、独語・英語・仏語ではドゥセック [Dussek] とも書かれるようです。 チャースラフ [Čáslav] に出生。1782年に C. P. E. バッハに師事したといわれています。 1779年に最初のピアノリサイタルを開き、1783年からはヨーロッパ各地で演奏活動を行っています。
ドゥシークは、ショパン、スメタナ、メンデルスゾーンのような数多くのロマン派のピアノ音楽の作曲家の先駆者でした。 ドゥシークの大いなる崇拝者であるトマーシェクは、ドゥシークの作品をプラハの若いピアニストたちの間に広めることに尽力しました。
亡くなったのは、仏サン=ジェルマン=アン=レイまたはパリと云われています。
アロイス・フックス [Aloys Fuchs]
ヴォジーシェクの親友で、且つ最初の伝記の著者。しかしその伝記には作品番号の誤りがありました。
ヨハン・ネポムク・フンメル [Johan Nepomuk Hummel, 14.XI.1778-17.X.1837]
プレスブルク [Preßburg] (現在のブラチスラヴァ [Bratislava])生まれ。
ヴォジーシェクやベートーヴェン、シューベルトらがいたこの時代の、著名な作曲家・ピアニスト・ピアノ教師の一人として知られていました。
ヴォジーシェクはヴィーンに出てからフンメルにピアノを師事していますが、1816年にフンメルはピアノ教師を引退し、ヴォジーシェクを自身の最も適任な後継者であるとして、自らの全ての弟子を引き継がせています。
幼少時より音楽的才能を発揮しており、1786年から2年間、モーツァルトに師事し、ドイツ各地やロンドンなどへ演奏旅行を行っています。 アルブレヒツベルガーやサリエリの下で学んだ後、1804年にはハイドンの後任としてエステルハージ侯爵の楽長に、1816年からシュトゥットガルト宮廷楽長に就任しています。 1818年からワイマール宮廷楽長に就任、この地で世を去っています。
更に詳しい情報はこちらへ→ 「作曲家J.N.フンメルの研究ノート」(外部サイト)
フランツ・X・ニェメチェク [Franz X. Niemetschek]
ニェメチェクはモーツァルト最初の伝記の著者で、高い道徳基準と強い個性を持ち合わせていることが知られていました。
ギムナジウムと大学で、ヴォジーシェクに哲学と教育学を教えました。
尚、Niemetschek は、「ドイツ人」を意味するチェコ語 Němec の指小形 Němeček のドイツ語表記に由来します。
カール・パハラー [Carl Pachler, 1789-1850]
法廷弁護士。グラーツにある邸に音楽家を招き、夫人と共に音楽家達を支援しました。
夫人のマリーは優れたピアニストでした。ベートーヴェンは、パハラー夫人の彼のピアノ音楽に対する優れた解釈を賞賛しています。また、彼女はベートーヴェンを支援したことで知られています。
一家はシューベルトとも交流があり、息子のファウストは7歳のとき、シューベルトから「子供の行進曲 ト長調」を贈られています。
ジーモン・ゼヒター [Simon Sechter, 1788-1867]
有名な理論家で、対位法の一流の大家でした。後にはブルックナー [Anton Bruckner] の師となっています。
ゼヒターは宮廷第二オルガニストの職を得るため、ヴォジーシェクと同じコンペティションで競ったことがありました。ゼヒターが参加していたために、このコンペティションにヴォジーシェクが勝利するのは容易なことではありませんでした(選ばれたのはヴォジーシェク)。
1828年11月にはフランツ・シューベルトが友人のヨーゼフ・ランツと共にゼヒターの許を訪れ、対位法のレッスンを申し込んでいます。シューベルトは、同月4日の1回目のレッスンには現れたものの、その後はレッスンを受けることが出来ませんでした。2回目の時にはランツが一人でやってきて、シューベルトは重病で来ることが出来ないとゼヒターに伝えたのです(シューベルトは腸チフスで同月16日に死去)。
イグナツ・シュパンツィヒ [Ignaz Schuppanzigh, 20.XI.1776-2.III.1830]
ヴァイオリニスト。1794年から組織された、リヒノウスキー侯爵の弦楽四重奏団のリーダーを務めていて、この頃にベートーヴェンに短期間ヴァイオリンの奏法を指導しています。1808年からはラズモフスキー弦楽四重奏団のリーダーになり、その後1823年までの8年間、ロシアに滞在しました。
ベートーヴェンは8年ぶりにヴィーンに帰ってきたシュパンツィヒが太っていたのをからかった「でぶっちょちゃん、お顔を見せて!」(WoO184) のカノンを書き入れた手紙を送って歓待し、再会を喜びました。
ベートーヴェンと親交があり、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲の多くを初演しています。
ルートヴィヒ・シュポア [Ludwig / Louis Spohr, 5.IV.1784-22.X.1859]
ブラウンシュヴァイク出身の作曲家、ヴァイオリニスト、指揮者。 ブラウンシュヴァイクで宮廷音楽家を務めつつ、ヴァイオリン独奏者としてヨーロッパ各地への演奏旅行も積極的に行っていました。 また、ヴィーンやフランクフルトの歌劇場指揮者も務め、作曲家としても交響曲やオラトリオなどの大作を含む作品を発表しています。
1822年にカッセルの宮廷楽長となり、同地の音楽水準の発展に寄与し、1847年には音楽総監督の称号を授与されました。
ヴァイオリンの顎当ての発明者としても知られています。
カッセルで亡くなっています。
ヴァーツラフ・ヤン・クシュチテル・トマーシェク [Václav Jan Křtitel Tomášek, 17.IV.1774-3.IV.1850]
Václav Jan Tomášek スクテチ [Skuteč] 出身のピアニスト・作曲家。音楽教師としての名声も高い人物でした。
モーツァルトの最も強力な崇拝者の一人です。 最初にフォルテピアノのためのロマン派の作品を書いた人物の一人でもありましたが、寧ろ当時の狂詩曲 [Rhapsodie]、牧歌 [Eclogue]ディテュランボス [Dithyramb] などによって、偉大な作曲家になった人物でした。
ヴォジーシェクは1804年から短期間、彼に学んでいます。 また、ヴォジーシェクの「12の狂詩曲」Op.1 は、トマーシェクに捧げられています。
スクテチのトマーシェクの家は現在、トマーシェクの博物館及び地元の人が通う教会として使用されています。また、そこから徒歩約5分のところに、19-20世紀の作曲家・V. ノヴァーク [Vítězslav Novák] の晩年の別荘があります。
ヨハン・ネポムク・ジジウス [Johann Nepomuk Zizius, 7.I.1772-5.IV.1825]
ボヘミア東部ヘジマヌーフ・ムニェステツ [Heřimanův Městec] の出身で、ヴィーン大学で統計学の教授をしていました。
ヴォジーシェクが大学で法学を学んでいた頃、学習のためのアイディアを授けています。
著名な音楽家による大規模な音楽の催しを自宅で頻繁に開いており、ベートーヴェンとヴォジーシェクはこの催しの中で知り合いました。
ベートーヴェンの献身的な友人としても知られています。

用語

狂詩曲
自由な形式のキャラクターピースの一種。
「狂詩曲」は元々、古代ギリシャの叙事詩を指した言葉でしたが、19, 20世紀になると自由な形式の器楽曲の一種として使われるようになりました。 その最初期のものは、ヴォジーシェクの恩師 ヴァーツラフ・ヤン・トマーシェクの作品が知られており、後に、ヨハネス・ブラームスの「2つの狂詩曲」Op.79、リスト・フェレンツの「ハンガリー狂詩曲」、セルゲイ・ラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」Op.43、モーリス・ラヴェルの「スペイン狂詩曲」などによってよく知られるようになりました。
ディテュランボス [Dithyramb]
元々は "ディオニュソス神を讃えて熱狂的に歌われる合唱歌。前600年頃の伝説的叙情詩人アリオンが初めてアウロス奏者を囲み, 50人で合唱するディテュランボスの形式を定める。前6世紀から前5世紀にかけて合唱歌から悲劇へと発展し、舞台上で演じられた。" ---音楽之友社「音楽中辞典」