Jan Václav (Jan Hugo) Voříšek : O Janu Václavu Voříškovi
ヴォジーシェクについて



ヴォジーシェクは 1791年5月11日、当時はドイツ連邦オーストリア帝国領であったボヘミア北東部のヴァンベルク [Vamberk] の学校の校長カシュパル・ヴァーツラフ・ヴォジーシェク [Kašpar Václav Voříšek] の子として生まれ、ヤン・フゴ [Jan Hugo] と名付けられました。洗礼を受けて、ヤン・ヴァーツラフ [Jan Václav] の洗礼名を授けられています。 ヴォジーシェクの父はチーニシチェ・ナト・オルリツィー [Týniště nad Orlicí] 出身、母は名をロザールカ [Rozálka] といい、クビソヴァー [Kubisová] 出身でヴァンベルクの靴屋の娘でした。
彼の兄は後に司祭となり、時折作曲もした人物で、姉妹もまた音楽教育を受けていました。
ヴォジーシェクが受けた最初の音楽教育は、3歳から始まった、父からのピアノとオルガン及び歌の指導でした。後にヴァイオリンも習い始めましたが、1年も経たないうちにプレイエルの四重奏曲の第1ヴァイオリンパートを弾きこなし、父を驚かせました。
ヴォジーシェクはヴァンベルク生まれのヨゼフ・スハーネク [Jos. Suchánek] に短期間学んでいます。尚、スハーネクはヴォジーシェクよりもずっと長生きをし、1851年に78歳で亡くなりました。

ヴォジーシェクはオルガン演奏でも優れた力を発揮しました。
7歳の年、ヴォジーシェクの家族にボヘミア中部のゴルチューフ・イェニーコフ [Golčův Jeníkov] の教会オルガニストがいましたが、その家族が病気になったため、その代役として6ヶ月間オルガニストを務めています。
7歳から10歳にかけての休暇の間、ヴォジーシェクは父と共に徒歩でボヘミアを旅しました。彼はモーツァルトのような神童として、ボヘミア各地でピアノやオルガンでの演奏を披露しています。
ヴォジーシェクの父は彼に、法律の勉強をすることと、上流社会に知られた存在となるために音楽的能力を使うことを望んでいました。

1802年から1813年の間、彼はプラハのグラマースクールで学んでいます。 ヴァンベルクの領主コロヴラット=リブシュテインスキー伯爵 [František Antonín hrabě Kolovrat-Libštejnský] がヴォジーシェクのパトロンとなりました。 最初にノーマルシューレ[Normalschule]、そしてギムナジウム [Gymnasium]、それらの後に大学で哲学の予備勉強をしています。ヴォジーシェクは、数学・物理学だけでなく、ラテン語、ギリシャ語哲学及びその他全ての人文科学の科目で非常に優秀な成績を修めました。
ヴォジーシェクは経済的な事情から、ピアノレッスンを行い、写譜をしたり、或いは才能に劣る学生を助けることで収入を得ていました。このことは、彼に家庭での補習を必要とする幾人かの裕福な学友がいたことを示しています。

1804年からヴォジーシェクは短期間、ヴァーツラフ・ヤン・トマーシェク [Václav Jan Tomášek, 1774-1850] に学びました。トマーシェクは、ヴォジーシェクが作曲家として最も関心を寄せる人物でした。 ヴォジーシェクは自作の「12の狂詩曲」Op.1をトマーシェクに捧げています。ヴォジーシェクの狂詩曲は、トマーシェクのそれを踏襲したと見られています。 トマーシェクの論理的な指導は恐らく実質的に十分ではなかったにもかかわらず、ヴォジーシェクの作品におけるトマーシェクの影響の重要性はしばしば過大評価されます。

プラハ滞在中は自分の時間をバッハの「平均律クラヴィーア曲集」 [Das wohltemperite Clavier] のために割いた他は、独学で音楽を学んでいました。 この曲集は、ヴォジーシェクがトマーシェクを介さずに自ら再発見したもので、生涯にわたって愛し続けたものです。 彼の多くの作品にみられるように、彼の同時代人で彼が最も影響を受けたのは、ベートーヴェン [Ludwig van Beethoven] ばかりでなくフンメル [Johan Nepomuk Hummel]シュポア [Spohr, Ludwig / Louis] もそうでした。
プラハでは当時の主要な一流の個性と会うことが出来ました。 ギムナジウムと大学で彼は、モーツァルトの最初の伝記著者である フランツ・X・ニェメチェク [Franz X. Niemetschek]ベルナルト・ボルツァーノ [Bernard Bolzano] に学びました。
ヴォジーシェクはプラハで過ごした最後の年に、幾つかの作品を出版しました。また、ヤン・ラディスラフ・ドゥシーク [Jan Ladislav Dusík] のピアノソナタ「パリに戻る」 [Le retour à Paris] を演奏し、高く評価されました。


1813年、22歳のヴォジーシェクはヴィーンに移り、大学で法律を学んでいます。 ヴィーン大学で統計学の教授だった ヨハン・ネポムク・ジジウス [Johann Nepomuk Zizius] からは、学習のためのアイディアを授けられています。 ジジウスは著名な演奏家による大きな音楽の催し物を自宅で頻繁に開催しており、ヴォジーシェクはここで初めてベートーヴェンに会いました。
ヴォジーシェクはフンメルに師事して更にピアノ演奏の研鑽を積みました。 1816年、フンメルはヴォジーシェクを自身の最も適任な後継者として、彼の全ての生徒をヴォジーシェクの生徒として転籍させています。これにより、主な生活の糧をピアノ教師としての収入に依存する若い音楽家ヴォジーシェクの経済的状況が改善しました。
プラハ時代とは異なり、ヴィーンでは彼の師を含めとしたプラハの友人たちの支えがありませんでした。
全てのヨーロッパの都市でますます人気を得つつあったヴィルトゥオーゾ・ピアニストとしてのキャリアを築くことは、彼には適していませんでした。 ヴォジーシェクの教えを受けた音楽家達の演奏について書いたヴィーンの音楽評論家達は、彼の指導能力を無視していました。後年フンメルが去った後も、弟子たちは「有名なフンメルの弟子」と呼ばれていました。

ヴォジーシェクは「芸術愛好家協会」と呼ばれるものの仕事に積極的に関わるようになりました。そこには高度に習熟したアマチュア音楽家が集まっていて、彼らは印象的で大変な労力を要するコンサートを組織し、行うことが出来ました。 音楽演奏の観点からいって知的で完全なプロフェッショナルな雰囲気の中で、彼は育ち、幾つかの強固な友情を形成していきました。 1812年から1814年までの間、これらのサークルの中から、ヴィーンの最も重要な音楽団体「楽友協会」[Gesellschaft der Musikfreunde] が裕福なヴィーンのブルジョアや貴族たちによって設立されました。
ヴォジーシェクは楽友協会で1815年から働きました。楽友協会では、最初はコレペティートル(バレエの練習ピアニスト)として、後には次席及び主席のカペルマイスターとなりました。 彼はまた、真剣にコンサートプログラムに関与していきました。
1816年以降に開始された、キーゼヴェッターによる歴史的音楽の公演では、大きな役割を果たしました。
ヴィーンの歴史的な復興運動が始まった際、ヴォジーシェクはまた、このコンサートのプログラミングや組織に貢献しました。
ヴォジーシェクは、1817年のヴィーン音楽院の創立に貢献したとみられています。 自身の唯一の合唱作品「春の神」[Gott im Frühlinge] を、そのために作曲しました。 そして音楽院のオーケストラが最初に演奏をしたのは、ヴォジーシェクの唯一の交響曲(ニ長調 Op.23)でした。

彼が人生の中で恐らく最も大きな影響を受けたフランツ・シューベルトとは、家族ぐるみの友人でした。 ベートーヴェンの友人であるニコラウス・ズメスカル・フォン・ドマノヴェツ [Nicolaus Zemesskall von Domanowetz] の家で、ヴォジーシェクはカタリナ・ツィビーニ [Katharina Cibbini] とピアノ連弾をしています。彼女は作曲家レオポルト・コジェルフ [Leopold Koželuh] の娘です。 彼はまた、ヴァイオリン奏者ヴィンツェンツ・ノイリンク [Vincenz Neuling] のソーシャルイブニング [social evenings] に出席していました。 駐スイス前オーストリア代理公使で、裁判所顧問官フェルディナント・ミュラー [Ferdinand Müller von und zu Müllegg] の家庭(最も優れた音楽家をよく招いていた)では、ヴァイオリニストのイグナツ・シュパンツィヒ [Ignaz Shuppanzig] 、ボヘミアからヴィーンに来た家系のチェリストであるペハトシェク [Pechatschek] と共に、室内楽の演奏を任されていました。 ヴォジーシェクのこれら全ての無償の活動は、ヴィーンにおけるヴォジーシェクの芸術的な生活のペースが多忙かつ疲弊させるものであったことを示唆しています。この間、彼の財政上の問題は未解決のままでした。

プラハで出版されたヴォジーシェクの最初の小さな作品群は、ゴットフリート・ヨハン・ドラバツジュ [Gttfried Johann Dlabacž] の「一般的な歴史的芸術家の百科事典」(プラハ・1815年) [Allgemeines historisches Künstler-Lexikon, Prague 1815] などにおいて、一定の評価をもって受け止められました。
より重要なものは狂詩曲です。これはトマーシェク(1844-1846)の自伝によると、ヴォジーシェクが1814年のヴィーン訪問中、ベートーヴェンに賞賛されています。
ヴォジーシェクの交友関係で注目されるのは、アロイス・フックスの他にはベートーヴェンが挙げられます。彼はヴォジーシェクを作曲家として評価していたヴィーンで唯一の主導的な音楽家であったかもしれません(他の多くの人々は、ヴォジーシェクをエクセレントなアマチュアの音楽家・ピアニストの一人の一人と見做していました)。 この若きボヘミアの同僚の作品と暮らしに対するベートーヴェンの関心は、その会話帳に二度にわたって登場しています(1820年及び1825年)。 ベートーヴェンの大いなる賞賛者で支援者であるルドルフ・フォン・エスターライヒ(ルドルフ大公) [DE:Rudolph von Österreich|EN:Archduke Rudolf of Austria] (ベートーヴェンは彼に《ミサ・ソレムニスを献呈しています》)の音楽コレクションには、ヴォジーシェクの出版された作品の殆ど全てが収録されています。

1818年、キーゼヴェッターの推薦でヴィーン学友協会管弦楽団の指揮者に就任しました。
同年、ヴォジーシェクは初めて宮廷オルガニストの職に応募しましたが、彼は採用されることなく、その優れたオルガンの才能を披露する機会がありませんでした。

Jan Václav Voříšek ヴォジーシェクがヴィーンに滞在中、彼がフランツ・シューベルト或いはその周囲のボヘミアの芸術家と連絡を取っていたという証拠はありません。 また、シューベルトの友人達の想い出の中に、ヴォジーシェクに言及したものも殆どありません。
彼は戦争評議会裁判所 [Court War Council] の何人かのメンバーを含むヴィーン高級官僚のサークルの中で主に活動していました。

1822年11月26日に宮廷第二オルガニストのヨハン・ヘンネベルク [Johann B. Henneberg] が亡くなると、ヴォジーシェクはその後任の職に応募しました。 戦争評議会裁判所の無給の下級事務官として6ヶ月間働いた後のことです。
この時行われたコンペティションは厳しいもので、他に7人いた応募者の一人はジーモン・ゼヒター [Simon Sechter] でした。 コンペティションで選ばれ、1823年1月10日に宮廷第二オルガニストに就任したヴォジーシェクは、翌1824年、シューベルトの師としても有名な宮廷第一オルガニストのヴァーツラフ・ルーシチカ [Václav Růžička] が亡くなると、その後任となりました。しかしその年のうちに病を発症したため、その在任期間は非常に短いものでした。

最後に過ごした1824年の休暇中、彼はグラーツ [Graz] を訪れました。そこで彼は恐らく、法廷弁護士で音楽愛好家のカール・パハラー [Carl Pachler] の一家に会っています。
地元の音楽団体 --- シュタイアーマルク楽友協会 [Steiermärkischer Musikverein] --- はヴォジーシェクを名誉会員にしました(同協会の名誉会員リスト)。 それに感謝して、ヴォジーシェクは --- 恐らくヴィーンに戻った後に --- 奉献曲 "Quoniam iniquitatem cognosco" を作曲しました。 これは彼が死に近づいていることへの予感を初めて示唆したものです。

同年の夏の間、ヴォジーシェクはカルロヴィ・ヴァリ(カールスバード)[CS:Karlovy Vary|DE:Karlsbad] と故郷を訪れています。
しかしこのとき、彼は病を得てヴィーンに戻りました。 病気によって、彼の財政状況は絶望的なものになりました。それは、彼の財産目録や、出版社に宛てた手紙から読み取ることができます(生涯最後の月の手紙には、彼が病気で外出出来なかったことが書かれています)。
彼の最後の意思は、自分を最後まで支えた誠実な友人に立ち会ってもらうことでした。それは、アロイス・フックス、ヨハン・ネポムク・フーバー [Johann Nepomuk Huber] 、そして戦争評議会裁判所での直属の上司で彼に親切だった、法廷評議員のヨハン・ヤコブ・フォン・ネス [Johann Jacob von Neth] の三人でした。

1825年11月19日にヴォジーシェクが亡くなると、遺骸はヴェーリング墓地に埋葬されました。一年半後にはベートーヴェン、その更に一年半後にフランツ・シューベルトの死が続きました。シューベルトは奇妙な偶然で、ヴォジーシェクの死の3年後の同じ日に亡くなっています。



脚注