About Zdeněk FIBICH


Fibichについて、幾つかのキーワードと共に記しています。

チェコ国民楽派第三の創始者

チェコ国民楽派は、スメタナ、ドヴォジャーク、フィビヒの3人が、その創始者とされている。 (1) (2)
当時、プラハの楽壇は「国民音楽とは何か」という問題について、スメタナ、フィビヒと、彼らを支持する美学者オタカル・ホスチンスキーらからなる「進歩派」と、老チェコ党のフランチシェク・ラディスラフ・リーゲルら、ドヴォジャークのシンパ達の「保守派」に分かれて論を戦わせていたが、フィビヒはスメタナの側にいたこともあり、この当時、スメタナの正当な後継者と目されていた。


近代メロドラマの創始者

メロドラマとは、一言でいうと「朗読+音楽」という形式の芸術である。
「物語にBGMをつけたもの」と考えてよかろう。
フィビヒは、当時廃れていたこのジャンルに、「クリスマス・イヴ」Op.9、「ヴォドニーク」Op.15 を始めとする作品を送り出し、復興を果たした。
これにより、フィビヒは「近代メロドラマの創始者」と呼ばれるようになった。 (*)
現在でも行われている「国際メロドラマコンクール」は、チェコの音楽業界団体「ズデニェク・フィビヒ協会」が主催しており、フィビヒの作品が取り上げられている。
また、フィビヒの作曲したメロドラマは「一人の朗読+ピアノまたは管弦楽」というもので、長くとも15分そこそこの作品であったが、現在では、ズデニェク・ザフラドニーク[Zdeněk Zahradník]の「K. H. マーヒの詩によるメロドラマ《5月》」[Máj. Melodram na báseň K. H. Máchy]のように、朗読も複数、音楽の編成も多様になり、演奏時間がより長い物もある。

尚、メロドラマ自体は R. StraussJ. Sibelius なども作曲しており、チェコの独特な音楽というわけではない。


国民音楽の推進者

ポルカをはじめとするチェコの民族舞踊の多くは、この時代に芸術音楽にも取り入れられるようになった。
フィビヒは、ポルカ、フリアントなどのチェコの民族舞踊曲を芸術音楽化していった。
弦楽四重奏曲のスケルツォ楽章にポルカが導入されたのは、フィビヒの作品が史上初めてのものであった。


交響曲作家

フィビヒは、番号付きの交響曲を3曲、その他、習作時代に2曲ほど作曲している。 これら5曲の作品は全て、作曲年或いは翌年に初演された(第1番のみ、Adolf Čechが指揮しており、その他は作曲者自身が指揮をした)。
スメタナはこのジャンルにはまとまった作品を残さなかった(時のオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ一世の成婚の為に書かれた《祝典交響曲》が遺されているが、オーストリア政府から献呈を拒否され、お蔵入りとなった)が、フィビヒはドヴォジャークとともに本格的な近代的交響曲をチェコ音楽にもたらした。


歌劇作家

この時代、歌劇で成功することは、多くの作曲家の目指すところでもあった。
国民音楽創出の立場から、スメタナ、ドヴォジャークと同様、フィビヒもまたチェコ語による歌劇を作曲した。
彼のこのジャンルの作品は、どれも順調に初演に漕ぎ着け、概ね成功を収めた。 なかでも、恋仲であったアネシュカ・シュルゾヴァーの脚本による、チェコの「男女戦争」の伝説を題材にした《シャールカ》Op.51 は最も成功し、今日でもしばしば上演されている。


コスモポリタニストの側面

国民楽派諸派のなかでも、チェコ国民楽派の場合は、民族独立という政治的な背景と密接な関係があった点で、他の国民楽派諸派とは趣きを異にしている。
スメタナの正統な後継者と看做されていたフィビヒはチェコの「国民音楽」の推進者の一人であったが、その一方、本来は相容れない、コスモポリタニスト(*)としての側面も同時に持っていた。
これは、音楽修行時代からボヘミア域外での音楽修行を多く積み、国際的な感覚や音楽観を身につけたことが関係していると考えられる。 というのも、フィビヒは9歳でウィーンに出たのを皮切りに、ライプツィヒ、パリ、マンハイムなどで学んでおり、ボヘミアに戻ったのは音楽修行を終えた二十歳の年である。つまり、音楽修行の凡そ半分の歳月をボヘミア域外で過ごしているからである。
この点、ドヴォジャークなどの場合とは極めて対照的である。
スメタナは『民謡の旋律やリズムの模倣によって国民様式が生み出されるのではなく、それらの民謡の脆弱な模倣は、劇的な真実さえも語り得ないだろう』 と主張した (*) が、フィビヒにとっては、ボヘミア域外に由来する音楽上の技法・音楽文化・文学なども、自身の音楽的人格を形成する時期に影響を受けており、そうしたものも自分のものの一部であるという感覚があったのだろう。
コスモポリタニズムと看做される作品には、 シェークスピアによる交響詩《オテロ》Op.6, ギリシャ神話を題材としたステージドラマ三部作《ヒッポダミア》Op.31,32,33、 ルイスダエルやピーテル・ブリューゲルらの絵画作品に触発されて書いた《画家の作品》Op.56などがある。 この他、スメタナやドヴォジャークが書かなかった、本来はポーランドの民族舞踊であるポロネーズを何曲も書いている。
また、技法面でも、近代フランス印象派が用いた連続五度(本来、古典和声では禁止されている)の和声進行を使用した例が見受けられる(例えば、歌曲集《バラード》Op.7など)。


教育者

音楽学校を自ら開設したスメタナや、プラハ音楽院で教鞭を執ったドヴォジャークやノヴァークとは対照的に、フィビヒは教育機関での後進の指導に携わることがなく、そういった場は、主に個人教授に限られていた。
要するに、次の世代への影響力は比較的小さかったのではないだろうか。
スメタナがいた頃の仮劇場でオペラの演出を担当することはあったが、公的な機関で後進を指導することはなく、そのような場は、専ら個人レッスンであった。

彼の門下には、独立チェコスロヴァキア共和国で文化大臣となったズデニェク・ネィエドリー [Zdeněk Nejedleý]がいて、彼はスメタナの研究に取り組む一方、文化大臣時代に行ったドヴォジャーク批判を通して、チェコの楽壇にネガティヴな影響を及ぼした。この他、フィビヒの作風を継承した作曲家で、指揮者としても活躍したオタカル・オストルチル [Otakar Ostrčil]、晩年のフィビヒに公私にわたって大きな影響を与えたアネシュカ・シュルゾヴァー [Anežka Schulzová] らがいる。